アジアの実験映画
- 작성
- 2017-05-02
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アジアの実験映画
3月から4月にかけて多くの人がACCライブラリーパークのブラックボックス・シネマに訪れ、様々な傑作映画を鑑賞した。お気づきの方も多いだろうが、上映作のほとんどは莫大な予算を投じた大ヒット作ではなかった。アートシアター系の映画は、通常の映画ではあまり扱われない、時には社会的にタブー視されている考えやコンセプトに触れられるまれな機会を与えてくれる。ブラックボックス・シネマのすぐ隣には「アジアの実験映画」という小さなコーナーがあり、ここではアジアの映画制作史に関わる大量の資料を所蔵している。
ここ20年ほどの間、「アジアのシネマ」という言葉は国際映画祭や定期刊行物、雑誌、新聞、ビデオ店などで大きく取り上げられてきた。「アジアのシネマ」を正確に定義するのは難しい。文化や言語、政治体制を異にする様々な国が多数集まった巨大な大陸「アジア」の定義についても同様である。アジアの映画が家族の絆や勤勉さ、忠誠心などのアジア的な価値観で結ばれていると言うことはたやすい。アジアの映画が面白いのは面白いストーリーを面白い方法で伝えているからだと思っている人もいる。
アジア社会で実験映画に携わる人々は際限なく周縁化され、細分化されてきた。ここで最も根本的な問題が「個人」にあることは否定できない。「個人」の問題はほとんどの場合、歴史的・社会的議論が必要であり、それはアジア社会における実験映画のルーツと現状を探る上で最も重大な要素でもある。
近代性はアジアの実験映画において大きな知的概念となったが、それは急成長しているアジア経済と、その経済を第三世界の開発途上国における西洋式近代化の実験場ととらえる認識のゆえである。アジアはこれまで、古いものと新しいものの中間に位置し、近代化の問題を避けることはできないと考えられてきた。近代化とともに消費主義や都市化が進み、それに伴って伝統的な家族の絆は脅かされ、男女の役割と関係には変化が起こる。ジェンダーや家族の問題は社会的階級や世代間の対立といった問題につながりかねない。社会が伝統に背を向けるにつれ、新しい街が出現する一方で消える街もあるかもしれない。法と秩序は別問題であり、罪と罰も然りである。
映画のスタイルと空間は、アジアの実験映画制作者が自分の文化的規範はもとより、哲学的・宗教的考えや期待をベースに、創造的自由によってストーリーを展開できる前提条件である。逆説的に言えば、アジアの実験映画はほとんどが商業的な利益を追求してはいないが、それでも世界中に共感できる人がいて映画芸術に貢献している。アジア実験映画の体験は普遍的であるとともに、アートシアター系のアメリカインディペンデント映画やヨーロッパのインディペンデント映画とはあからさまに異なる。アジア映画に込められた思想や考え、ストーリーやそれを伝えるスタイルについては、さらに深い探索と分析を要する。アジアの地理的範囲は広大で文化的背景も多様であることから、この分析の範囲も膨大で限りがない。
記事:第10期ACC記者団 エヴゲニー・スマギン
デザイン:第10期ACC記者団 ムン・グムジ
デザイン:第10期ACC記者団 ムン・グムジ